宮 城 聰 
演劇とは何か
 演劇は、2500年前に書かれた台本を今日の俳優が演じているという、奇跡的な芸術である。
 しかし歴史が長いということがそのまま価値が高いということにはならない。「優れた本質を備えていたから長続きした」と単純に言い切ることはできない。むしろ今日演劇に関わる者は、「演劇はまだ有効なのか?」「演劇というジャンルにはこの先も生きのびられるだけの本質があるのか?」と厳しく問うところから、スタートせざるをえない。
 そもそも、そう遠くない過去まで、「いちどきに多数の人間に対して」何かを表現するメディアは、演劇(的なもの)しかなかった。活字・映像・複製・電波・ケーブルネットワークといったコミュニケーションメディアは、どれも演劇から見れば、「つい最近」登場したライバルたちである。つまりつい最近まで演劇は、ライバルの居ない環境で、大名商売をやってきたのだといえるだろう。(むろん娯楽としてはギリシア時代からいくつかのライバル、例えば賭博や売春や相撲を初めとするスポーツや、との競争に晒されてはいた。しかしそれらは、「表現」のメディアとは言い難く、ここでの話とはまったく別 である。)端的に言えば、ストーリーという妙薬を使って人の興味を惹いたり、政治的な主張を伝えたり、といったことは、かつては演劇の独占事業だったということだ。現代の演劇が一部で衰弱しているとすれば、むしろかつての「黄金時代」の癖をそのまま無検証に引き継いだ演劇人たちが、いまだにノーテンキにストーリーを語ることに満足したり、エッセイでも書けることをわざわざ演劇にしたりしていることの結果 に他ならない。繰り返すが、かつて演劇が独占的に担っていた機能の多くは、いまでは別 のメディアの方がはるかに上手に、効率的にこなしてくれるようになっている。或る面 では映画やテレビやビデオやロールプレイイングゲームはすでに演劇との競争に完勝している。そして今後も、すばらしい機能を備えた新しいコミュニケーションメディアは登場しつづけるだろう。こうして演劇の独占事業権はみるみる蚕食され、多くの演劇作品が観客から「別 に演劇でなくてもいいじゃん」と見なされ、演劇は「なんとなく古くさいもの」「趣昧的なもの」「嗜好品」[教養」「マスコミに出してもらえない役者の演技訓練」といったイメージをまとうようになっていったのだ。
 だが旧態依然の演劇がこのようにして滅亡してゆく一方で、「いま、演劇にしかできないこと」「演劇の最後の使命」をひたすら探求しつづける演劇人が世界的に台頭し、演劇という最古の芸術に全く新しい輝きをもたらすようにもなってきた。つまり、現代の目まぐるしい「情報化」、矢継ぎ早のニューメディアの出現は、演劇という「老大家」に仮借なく死と再生を迫り、その結果 20世紀末葉は演劇にとって大きな地殻変動の季節となったのだ。
 こうした動きの中で、僕は日本の60年代以降の小劇場演劇の担い手たち(の幾人か)に尊敬とシンパシーを抱いてきたし、同世代の何人かの演出家に対しても同様のシンパシーと対抗意識を持って演劇活動を行ってきた。つまりそれらの人々は「演劇でなければできないこと」を追求し、「いま、演劇とは何か」を常に疑い、常に探り当てようとしている人々だ。「いま、演劇とは何か」と問う作業は、「いま、演劇は何でもない」という答と闘う作業でもある。絶望を知ったあとに抱く希望のチカラ強さが、この闘いを闘う世界の演劇人たちを新しい光で輝かせる。
  演劇とは、何なのか!?──
 これについて考える時、僕は二つの大きな柱があると思っている。ひとつは、演劇は「現実」を最も引き受けた芸術である、という点。もうひとつは、演劇は他者の「他者性」と出会うための芸術だ、という点。
 この二点は言うまでもなく相互に関連しあっているのだが、ここではまずひとつめの論点について考えてみよう。
 演劇をそれ以外の芸術と区別する基本的な構成要素は何だろう。僕はそれを「言葉」「肉体」「集団」の三つではないかと考えている。演劇以外にこの三つをすべて揃えている芸術はないし、逆にこの三つを備えているなら、それは演劇行為と呼んで差し支えないと僕は思っている。
 「言葉」「肉体」「集団」──この三つはどれも、人間が現実世界を生きる上で決してのがれることのできない要素である。(その点で絵画や音楽とは決定的に異なるだろう。)その意味でこの三つは人間を現実世界につなぎとめる碇のようなものであり、まさに「現実世界」そのものの三大エレメントとも言えるものである。(実際ヒトは現実から逃避したいと感じる時、具体的にはこの三つのどれかからの逃避を夢みているのだ。)これはある意味では、演劇というものの限界を表してもいる。つまり演劇は音楽や絵画や小説のようにはヒトに夢を見させることができない。また(現実が複製できないのと同様)演劇も複製することができない。つまり演劇は、現実そのものが持っている制約をそのまま制約として引き受けている芸術なのだ。だがこのことはそのまま、演劇の圧倒的な強みにもなっている。演劇という表現方法を用いる時、その芸術家が「この世の中をどうとらえているか」を最もダイレクトに観客に伝えることができる。観客の立場から言えば、他の表現に比べて最も「自分の生活に持ち帰れる」のが演劇体験だ。それは観客の現実を表現するという意味ではなく、舞台上の表現が観客の現実と直接関わりを持ちうるということだ。もちろん、ここで言ったことは、今在る演劇作品がみなこういう働きをしているという意味ではない。そうではなくて、演劇にはこういうポテンシャルがあるという話だ。つまり簡単に言えば、演劇は観客の日常生活を変えることができる、はずだ、ということなのだ。
 例えば、仕事のあとの一杯のビール、というものと演劇を比べてみる。現実生活の憂さを忘れさせてくれる、という点では圧倒的にビールの方が優れている。ただ、ビールでは現実生活そのものは変化しない。現実生活は憂きまま残される。現実を逃れた場所を「夢」と呼ぶなら、ビールはヒトをたやすく夢へと運んでくれる。ビールを飲むことで人はたやすく敷居を越え、夢へ踏み込むことができる。ただ、ビールから醒めて再び現実に戻った時、その現実は少しも変わっていない。ここでは、夢と現実のあいだに回路はない。一方演劇は、ヒトを夢へと運ぶのは全く得意ではない。できないわけではないが、夢へ運ぶ能率(効率)はとにかく良くない。だが、演劇が作る夢には、現実との回路が有る(可能性がある)。ヒトが演劇によって敷居を越えた場合、現実に戻った時にその夢を多少持ち帰っている(可能性がある)。現実に持ち帰った夢は、じわじわとその人の日常生活に影響を及ぼしてゆく。例えば、「人問が生き生きと生きている」夢を見たとするなら、その夢は持ち帰られ、その人は自分の日常生活において「もっと生き生きと生きられるはずだ」という欲望を潜在的に持ちつづける。そしてその欲望は長い間かかってその人の生活(のしかた)を少しずつ変えてゆく。つまりここでは何らかの治癒(例えば、非人間的な環境の中で「もっと良く生きたい」と思わない病に対する治癒)が行われる。(ビールには出来ない芸当である。)
 ヒトは夢がなければ生きてゆけない。だがその夢が現実とつながっていなければ生きてゆく甲斐がない。
 そして「現実とつながった夢」を紡げる可能性が一番高いのが、夢を見させることを一番不得意とする演劇だ。現実の制約を引き受けているものの見せる夢が、一番チカラがあるのだ。(鳥が空を飛んでも当り前だが、人間が空を飛べればオドロキだ。)
 だがここで難しいのは、その夢が現実への効力を持つためには、それが十分に現実を引き受けたところから生まれたもの、即ち「言葉」「肉体」「集団」のすべてから逃げることなく生み出されたもの、でなければならないという点だ。演劇は夢を見させるのが不得意だと言ったが、逆に演劇にとって「夢を見させる」機能を強化する簡単な方法は、「言葉」「肉体」「集団」のどれかから逃げてしまうことに他ならない。つまり、「夢を見させる」ことに力点を置きすぎると、結局、肝心の「言葉」「肉体」「集団」のどれかをないがしろにしかねないのだ。ここが演劇の難しいところだ。最大の弱点を克服したつもりが、結果 的には「演劇でなくてもいいもの」に成り下がってしまう、ということがしばしば起こる。「言葉」「肉体」「集団」のどれかから逃避することで作られた夢は、演劇以外のメディアがもっとたやすく紡ぎ出せる夢にすぎない。
 僕が演劇の本質だと考えているふたつめの柱は「他者の他者性に出会うための芸術」ということだ。
 産業革命以前の社会と現在の「先進国」の社会を比べると、個人が受信する情報量 はほとんど比較にならないほど増えてしまった。例えば買物をする際の選択肢の数で考えると、たぶん千倍くらいにはなっているだろう。いわゆる情報の洪水の中を現代人は泳ぎながら生きている。
 だが、その情報量の増加に比例して、個人が多くの他者と出会うようになったかというと、全くそうとは言えないと僕は考えている。第一、たかだか百年余りの間に、人間ひとりひとりの情報処理能力がそんなに飛躍的にアップするわけがない。白分自身のことを考えてみても、つきあう人間の数が少ない時にはその相手から発信される情報のディテイルまで受けとって、さまざまに自分の心が波打っていたが、つきあう相手が増えればおのずとそのひとりひとりから受けとれる情報量 は減少してゆく。僕は結局のところ人間が処理(受信→判断・反応)できる情報量 の総量は、今も昔もあまり差がないのではないかと思う。
 ただ、「昔と変わっていない」のならまだいいのだが、実際は昔よりはるかに「他者と出会わなくなっている」ことが、情報社会に住む現代人の病巣だろうと僕は感じるのだ。
 買物を例にとって考えてみよう。日本でいえば百年くらい前までは、まず売りものに値札はついていなかった。野莱ひとつ買うにも買い手は売り手とまともに向かいあう必要があった。(その日その日に買える野莱の選択肢はほとんどひとつふたつなのだから、買い手は「何が食べたいか」で野菜を選ぶことはできない。ほぼ同じ品目を売る複数の売り手の中でどの売り手から買うかの判断は、商品そのものの価値〔や値段〕によってなされるのではなくて、全く人間対人間の関係に依っていたわけだ。)当然売り手の機嫌が悪ければ高い買物をするハメにも陥るし、買い手が巨体だったため売り手が圧迫感を感じて安く売ってしまうこともある。買い手が何日も風呂に入っていなかったら、売り手は買い手を追っ払うことすらある。売り手が風邪をひいて店が出ない日もあるし、毎日買いに来る客を待って、遅くまで店をひろげている日もあるだろう。要するにここには、商品そのものの情報以外に、売り手と買い手の感情(あるいは身体性)が大きく関わっている。そして買い手の立場で言えば、商品についての情報はほんのわずかでも、売り手が(その身体から)発信する膨大な情報を受けとめ、それを処理しながら、日々の買物をしているわけだ。そして「他者」の「他」者たるゆえんはその身体性にあるのだから(どのような教育をほどこしても人間の身体性−感情を完全に画一化することはできない)、つまりはここで買い手はまさしく他者というものと出会っているのだ。
 一方で現代の「情報資本主義社会」の買物、その流れの先端にあるものとしての通 信販売やネットワーク上のショッピングについて見てみると、ここには「他者」が全く存在しないことがわかる。たとえばネットワークショッピングでは商品の選択肢はほとんど無限と言っていいほどで、文字のやりとりだけで世界中の品物を購入できる。ところが、ネットワークのむこうにいる売り手は、実は買い手と全く同じ身体性を持った人間、いわば買い手と同一の人物なのだ。365日、24時間買いものができるということは買い手が「買いたい」と思ってネットワークにアクセスする瞬間、売り手も「売りたい」と考えているということだし、むろんネットワークのむこうから、買い手が違和感を覚えるような身体性(体格とか体臭とか汗とか声色とか)が漂ってくることもない。ここでは買い手自身の身体も単純化されているから、売り手にとっても、世界中からアクセスしてくる無数のカスタマーはみな同一人物の分身にすぎない。モニターの画面 上に表示される商品情報だけが唯一無二の物差しなのだから、買い手にとってはどれほど沢山の商品情報も、その処理は(「このおじさん、どうも機嫌が悪いみたいだけど……目の下にくまができてるし……」といった他者の身体から出る情報を処理する仕事に比べて)いたって容易である。
 要約すれば、ヒトは他者を他者でなくす(自分も自分以外の人間も同一の身体にする)ことで、爆発的に増大した情報を処理できているわけだし、言いかえれば、他者を他者でなくす仕組みが登場するごとに、その社会に流通 する情報量は飛躍的に増大してきたのだ。
 このような社会の危険なところは、こうした「他者の消滅」の感覚が人間の生活のすべての局面 に及んできて、例えば学校とか家庭とかいった、情報資本主義とは全く異なる原理で成り立っているはずの関係においても他者と出会えない(「他者」という存在が理解できない)人間が増えてきていることだ。それは若い世代に限ったことではなく、おカネというはっきりした原理のある会社ではなんとか対人関係をこなしていても、生身の人間ひとりひとりと向きあわなくてはならない家庭においては人間関係をうまく構築できない「会社人間」たちもまた、「他者の消滅」に冒された者たちだ。
 情報の洪水の中を生きねばならないことは現代人にとってほぼ不可避のことだろう。突然山にこもって木こりになったり炭焼きになったりすれば、それだけで他者と出会う能力は甦るだろうが、そういうわけにもいかないのが大方の現実だ。となるとやはり、現代人の生活の一角に、他者と出会う訓練をする場、あるいは他者と出会う喜びを知る場を、敢えてつくらなければならないのではないか、これが僕の考えだ。
 そしてここに、「他者と出会うための芸術」たる演劇が、いやが上にも浮上する。
 演劇は、生身の人間が、生身の人間たちに何かって、何かを表現しようとする芸術だ。俳優にとっては、共演者という他者、観客という他者といかに出会えるかが生命線となる芸術だ。演出家にとっては、俳優やスタッフたち、それから、劇場でともに客席に坐ってその作品を見る隣人たち=観客たち、といかに出会えるかが勝負となる芸術だ。ここではお互いがお互いに対してどれほど敏感になれるか、どれほど多く相手から出る情報を受けとめられるかが作品の良し悪しを決定する。
 俳優から出る情報、客席から出る情報のほとんどは、文字化されえない、アナログな情報だ。それは例えば、日没前後の一時間ほどのあいだ、文字では「タ焼け」と要約される西の空が、刻々と姿を変えて発信しつづける無限の情報と同じ種類のものだ。それは価格とか商品のスペックといったデジタルな情報の対極にあるものだ。そして他者の他者性とは、まさにそのアナログな情報の中だけに含まれているのだ。
 その源は物質としての身体、生命体としての身体−感情にほかならない。だからこそ、このアナログな情報は基本的に受けとめる側に違和感を生み出す。つまり、他者の他者性とは、この「生理的な違和感」そのもののことだと言ってもいい。現代人の多くがこの「生理的な違和感」から逃げようとしたり、あるいはわざと鈍感になろうとしたりしているのに対し、演劇はあえてその違和感と自分の中で向かいあい、違和感をからだいっぱいに抱えこんだままそれでもなお相手を受けとめつづけようとする行為だ。それは少くとも、観客という他者から身体をとりのぞき、マーケティングによって文字情報化し、それによってより多数の観客を情報処理し、その結果 導かれる「望まれる商品」に向けて作り手達が自己の身体を単純化していく、といった作業とは正反対の行為にちがいない。
 共演者に対して、また演出家に対して、まず違和感を感じることが俳優の仕事である。この感覚は放っておけば(現代社会を生きていれば)おのずと鈍っていってしまう。だから俳優はつねに、稽古場と舞台で、その「生理的違和感を感じる感覚」を磨きつづけなければならない。少数の(きわめて少数の)天才を別 として、そのためにはことさらの努力が必要となる。稽古場で行われる基礎訓練や演出家のアドバイスの過半はこうした感覚の研磨、サビ落としのためにあると僕は考えている。
 そして観客には、親和感よりもまず違和感を感じてもらうことが演劇人の仕事である。俳優たちが観客にとって明確な「他者的身体性」を持っているなら、それは第一印象として違和感をもたらすはずだからである。(秀でた俳優を「怪物的」なもの、または「聖的」なものと感じる観客の印象はまさにそれである。)もし舞台に登場した俳優が観客にまず親和感を抱かせたとしたら、それは俳優みずからが自分の身体を単純化していることの証左である。他者とはそもそも「なんじゃこりゃ!」という存在であり、すぐれた俳優の第一印象も、その本質は「なんじゃこゃ!」である。ただそのことが観客の中で「美しい」とか「可笑しい」という言い方に変化するにすぎない。
 この違和感はしかし、俳優や観客が他者と自己についてより敏感になり、より自覚的になることを促してゆく。つまり違和感はずっと同じ形で違和感のまま残ってゆくのではなく、物質としてまた生命体としての人間存在の奥の奥、その普遍的な核への探求へと人を向かわせる。もちろんこれは生半可な仕事ではなく、現代を生きる者が四六時中実践できるようなことではない。しかしだからこそ、せめて演劇現場では、この「壮大な」営みは貫かれなくてはならない。演劇がそれをしなければ、或る種の新宗教が安易な形でそれを代行してしまうだろう。
 「他者と出会う」ことは、その「違い」への驚きから出発して、真の邂逅へと向かうことだ。普遍の核を発見しようとすることだ。
 演劇はその頂点のパフォーマンスにおいて、この営みを結晶化するだろう。その時観客は、俳優への「なんじゃこりゃ!」という驚きから出発し、最後には「自分もまたこの俳優と同じ『人間』というものなのだ!」という驚きに至る。
 そしてその驚きが観客の日常生活に持ち帰れるところに演劇の凄さがある。
 ここで「現代という病への治癒」が行われる。
 その時初めて、演劇は「奇跡的な芸術」と呼ばれるのだ。
(『劇場文化』第3号掲載)
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